月別アーカイブ: 2012年1月

15日(日)、小正月でありもともとの成人の日です。

こんばんわ。

ちょうど15日が日曜日になりました。
以前は今日が正月飾りをしまう日で、成人の日で、
お正月が終わる日でしたね。
ハッピーマンディとかで第2月曜がこの日になってから
とても忙しくなりました。そう思いませんか?
私は昨日は地区の婦人部の新年会で、
顔なじみの奥さんたちと飲んでしゃべってきました。
ご近所のいろんな話が飛び交って、女はたくましいと思うひと時でした。
でも、なかなか…。(いろんな意味がある…です)
さて今夜でこの物語は最終章にしようと思います。
新工場で営業を始めるとすぐに、福井でもバブルの時代が終わり、
営業店様もなかなか売上が伸びない時代に入りました。
そんな時に個人の方からの電話注文をいただくようになり、
個人向けの作業が増えてきました。
きっかけは雑誌に弊社の記事が載ったことでした。
電話で問い合わせがあり、弊社のそば粉の特徴や価格をお伝えしましたが、
まさか実際に載るとは思っていませんでした。
  
   2012-01-18 15.26.31.jpg      2012-01-18 15.34.52.jpg
    こんな記事でした。                           1999年版
本当に少しずつですがご注文が入ってきたのです。
私どもは何の知識もなく宅配という仕事を始めてしまいました。
仕事人は二人しかいませんから、気をつけながら作業しましたが、
クレームをいただくこともあり、このままではいけないと思うようになってきたころ、
そういう時期に金沢で仕事をしていた息子健太郎が帰ってくることになりました。
平成16年のことです。こちらは福井豪雨があって大変な年でした。
龍夫は健太郎にこれからはネットの時代だから習いに行けと言い、
ふくい産業支援センターのHPとネットの講座に向かわせました。
そして、平成17年10月に弊社の新しいHPをアップしました。
それ以来、お客様に気持ちよくご注文をいただき、確実に商品をお届けできるように
いろいろ心配りをしてきましたのも、常務の健太郎の頑張りの結果です。
私達の不足分を補いいろんなアイデアを出して実行してきました。
そして、創業の末吉家から加賀が商売を引き継いで70年が経過するのを契機として、
平成21年1月13日より(有)末吉製粉は(株)カガセイフンとして歩き始めました。
この年の10月に健太郎は金沢時代からおつきあいをしていた
瑞絵さん(身内なのにごめんなさい、今回だけです)と結婚しました。
兵庫の実家に帰っていましたが、息子の申し込みを受けてもらえました。
お式は福井と兵庫の中間ぐらいになりますか、
長年、弊社のそば粉をお使いいただいている滋賀県の多賀大社さんで
挙げさせていただきました。お多賀さんと親しまれています。
ここは伊勢神宮の親神様が祭られているお社で、縁結びに御利益があるそうですよ。
おかげさまで夫婦仲良くしています。
以来我が家は家族7人で変わりなく過ごしています。
カガセイフンは今年、社名変更して3年が経過し、
この社屋に移転してから5月で丸20年になります。
二人が三人になり、今は龍夫、扶美代、健太郎、瑞絵の四人になりました。
物語はこれで終わりますが、弊社はこれからも皆様に
安心安全なそば粉をお届けできますように頑張ってまいります。
よろしくお願い申し上げます。そして、
皆様のご利用を心よりお待ち申し上げております。
長々と書いてまいりました。
お読みいただいてありがとうございました。
では☆

今日は1月13日(金)です。カガセイフン物語の続きです。

こんばんわ☆ 今日の仕事も終わりました。

今、事務所に一人でいて帰る前にブログを書いていこうと思います。
今日は株式会社カガセイフンの記念日です。
3年前に組織変更をして、有限会社末吉製粉から今の社名になりました。
以前の社名はネットのみに残し、第一歩を歩き始めました。
お得意様はじめ弊社をご利用いただいているお客様のおかげで、
営業を続けてこられました。
心より感謝申し上げます。
これからもよろしくお願い申し上げます。
この間に息子は結婚し、お嫁さんも一緒に仕事をしてもらっています。
あとは子供(孫)を授かると嬉しいですが。欲ですね。
さて、物語を続けます。
昭和60年春に父が癌であることがわかり、金沢医大病院に入院し手術を受けました。
母も金沢に看病に行っていて、
私達は5才から2才の子供3人を保育園に預け必死で仕事をしました。
その後5年の間入退院を繰り返し、先代健治は平成3年に亡くなりました。
私はこの5年をありがたく思っています。
先代から当代へ仕事を引き継ぐための大事な時間をもらったと思います。
保育園へお願いしていた子供3人もみんな小学生になり、
祖父の姿を記憶に残して送ることができてよかったと思っています。
平成3年3月より代表取締役は5代加賀龍夫になり、私も取締役に就任しました。
その年の9月に大型台風19号が日本に上陸し、全国で大きな被害を受けました。
その後に入荷した玄そばに粒の大きさがかわらないほどの石が混入していたのですが、
その当時の設備では分別が完全にできなくて、そば粉に石の粉が混入するという
取り返しのつかないことが起こってしまいました。
それまでも父を交えて新しい設備を入れないといけないという話をしていましたが、
この時はもう待ったなしの状況で、最新の設備を入れるためには
新しい工場を建てるということから始めないといけませんでした。
それほどに機械が大型化していたのです。

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今日は1月11日(水)です。カガセイフン物語は第3章です。

こんばんわ☆

今日は11日(水)です。鏡開きですね。

この地区の左義長、どんど焼きは8日の日曜日でしたので、
正月飾りはすでに燃やしてしまいました。
鏡餅も今日を待たずに開いてしまい冷凍してあります。
これから焼餅やお雑煮やぜんざいでゆっくり楽しみますよ。
さて、物語を続けますね。
私は昭和50年3月、福井に帰ってきました。
1年間は見習い期間としてアルバイト待遇で、
簿記を習い、ワープロを習得し、料理は花嫁修業をかねて?
そして、両親と一緒に働き始めて4年、
縁あって現社長の龍夫と
加賀の家に入ってもらうことにして結婚しました。
奇しくもこの年、昭和55年の5月に弊社は福井商工会議所から
創業100年以上の企業として表彰されました。
何か不思議な縁を感じます。
100年を一区切りとして新しい時代に入る時期だったのかもしれません。
翌年1月に私達夫婦は長男を授かりました。
現常務の健太郎です。
56豪雪の中、元気に生まれてきてくれました。
男の子を持てなかった父の喜びは大変なものでした。
目の中に入れても痛くないというのは
こういうことを言うんでしょうね。
健治と健太郎のW健はいつも一緒で、
休みは二人でいろんなところに出かけていたようです。
下二人は女の子で、男五人兄弟で育った主人は
娘がかわいくて、こちらも目の中に入れても痛くない人。
父も主人も楽しかったでしょうね。
銀行員だった主人は、
健太郎が生まれてから仕事を辞める準備を始め、
翌昭和57年3月に退職し、(有)末吉製粉所の社員になりました。
さて、この続きはまた明日にします。

今日は1月8日(日)です。物語はお休みします。

こんばんわの時間になってしまいました。

昨日は出かけてこようと思っていましたが、
やっぱり仕事が忙しく無理でした。
年が明けても暇な日はなく、
ありがたいことですが疲れがたまりますね。
それならとヘアーサロンへ行き、
年末のくたびれた髪の手入れをしてもらいました。
おまけに両手のパックがお年始のサービスで、
あかぎれひびがいっぱいでひどい手がしっとりして、
こんな感触は久しぶりです。
嬉しいものですね。
こんな数時間でも一人になれて落ち着きました。
今日は家の寒いお風呂を何とかできないかと思っていたのを
何とかしようとホームセンターへ行ってみました。
風呂窓のブラインドのカビがひどくてはずしてしまったら、
最後に入る私は寒くて仕方がない。
いろいろ見ているうちに、シャワーカーテンが目に留まり、
これで何とかなりそうだと思いました。
突っ張り棒を一緒に買って帰り、
窓枠より20cm程丈を長く切ってミシンですそ縫いをして、
取り付けてみるとなかなかいい感じです。
今日も最後に入りましたが寒くない。
しばらくですが半身浴もできました。
窓からの冷気がこんなに強いものとは思いませんでした。
暖かくお風呂に入れることも幸せです。
何か特別なことをしたわけでもない日でしたが、
ゆったりとした気分で寝られます。
明日もう1日お休みさせていただきます。
帳簿がたまっていますのでそちらを頑張りますから。
物語は明日にします。

今日は1月6日(金)です。カガセイフン物語第2章です。

おはようございます。

今日はもう6日です。新年も早1週間が終わってしまいますね。
明日は七草で、あさっては福井では成人式が執り行われます。
絶え間なく、時間を無駄にしないように生きていますが、
日々思いが変わり、自分の感情を保つことが難しい時があります。
こんな時は一人になることが私には大切で、
明日ちょっとでかけてこようと考えています。
さて、カガセイフン物語の続きです。
この工場兼自宅前の道路は勝山街道と呼ばれ、
永平寺、勝山からやがては白山に通じる道で
昭和40年代に入ると自動車の通行量が増えて
営業用のトラックの出入りが難しくなってきました。
そのため、先代4代の健治は近くに土地を求め、
昭和45年12月、鉄骨一部二階建ての工場を新築し移転しました。
翌昭和46年6月、末吉製粉所 加賀商店を法人にして、
有限会社 末吉製粉所と組織変更をしました。
父母はがんばってくれて、私ども姉妹はそれぞれ進学させてもらい、
私は2年の約束で昭和48年に県外の短大へ進学しました。
その年の11月、父が新そばを運送会社の社員さんといっしょに
倉庫へ積み上げていた時に、足を滑らせて床に落ち、
右足首を複雑骨折してしまいました。
年末の繁忙期を前に起きた事故でしたが、
連絡を受けて私は身が震える思いがしました。
短大を休学し、福井に帰って家の仕事を始めました。
運転免許は夏休みに取得していましたが、今みたいにナビはないので、
得意先の住所を書き出しての慣れない運転では時間がかかること。
それでもお得意様からは「がんばんねの」と声をかけていただき
とても励まされました。
無我夢中の1ヵ月半を過ごし、父が退院してきましたが、
もうこの商売からは離れられないんだなと思いました。
残りの短大生活をしっかり楽しんで過ごしました。
卒業してからのお話は…続きにします。
電話が鳴り始めましたので。

今日は1月3日(火)です。カガセイフン物語を始めます。

こんばんは。

今日は1月3日、我が家の末娘の誕生日です。
28歳になりました。早いものです。
幸せな1年になりますようにと思います。
ちょっと私事を書いてしまいました。すみません。
さて、カガセイフンの足跡を書いていきたく思います。
しばらくお付き合い下さい。
カガセイフンの前身は末吉製粉所といいました。
創業家は末吉家で初代は時十郎氏。
明治10年代に創業されたようで、
現春山小学校の付近に工場があったと聞いています。
2代は正志氏、そこに私の祖父が奉公に行っていて、
代替わりで後継ぎさんがなく、祖父が石臼を含む全設備と
お得意さんをいただきました。
昭和初期の頃で、ここから末吉製粉所を加賀が引き継ぎ、
末吉製粉所 加賀商店として営業を始めました。
当時は現志比口に流れる芝原用水に水車をかけて
石臼を回していたと聞きました。祖父京作は3代になります。
昭和21年に近くに土地を借りて、
電気で機械を動かす工場を建て、営業を始めました。
石臼はたった5台、動力源から幅広のベルトでつなげて、
年中休むことなく石臼を動かしていました。
止めるのは正月三が日だけ、子供心にも負担でしたよ。
私は3人姉妹の長女で、母は会社勤めをしていましたので、
小さいころから4代の父健治にいろんな仕事を言いつけられました。
商売屋の長女なんて手伝いをするのが当たり前の時代、
大人からは「しっかりしたいい子」と言われます。
でも子供の間ではかわいげのない、つきあいができない子で、
たいてい一人でいましたね。
私の行く末がわかるようでしょう?
さて、時代は昭和40年に入ってきます。

今日は平成24年1月1日、元日です。

新年あけましておめでとうございます。

クリスマス寒波で寒い忙しい年の瀬でしたが、
大晦日は穏やかな日和でゆったりとした年越しとなりました。
皆様はどんなお正月をお過ごしでしょうか。
今年は平成24年、弊社が今の場所に工場を新築移転したのが
平成4年5月16日でしたので、今年で丸20年になります。
「光陰矢のごとし」といいますが、本当に早く過ぎた20年でした。
主人は39歳、私は37歳で大きなものを抱えてしまいました。
なりふり構わず働いて、3人の子供を育ててきました。
まだあと少しがんばらないといけませんが、
一区切りがついたのかもしれません。
主人は今年還暦を迎えます。
たいした病気もせず、趣味のバイクに乗りつつ、
仕事も続けています。
そして、今から少しずつ息子に仕事を譲っていくことを始めます。
個人の事業の継承は見て覚える、聞いて覚える、
経験して覚える、それしかありませんから。

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