今日は1月13日(金)です。カガセイフン物語の続きです。

こんばんわ☆ 今日の仕事も終わりました。

今、事務所に一人でいて帰る前にブログを書いていこうと思います。
今日は株式会社カガセイフンの記念日です。
3年前に組織変更をして、有限会社末吉製粉から今の社名になりました。
以前の社名はネットのみに残し、第一歩を歩き始めました。
お得意様はじめ弊社をご利用いただいているお客様のおかげで、
営業を続けてこられました。
心より感謝申し上げます。
これからもよろしくお願い申し上げます。
この間に息子は結婚し、お嫁さんも一緒に仕事をしてもらっています。
あとは子供(孫)を授かると嬉しいですが。欲ですね。
さて、物語を続けます。
昭和60年春に父が癌であることがわかり、金沢医大病院に入院し手術を受けました。
母も金沢に看病に行っていて、
私達は5才から2才の子供3人を保育園に預け必死で仕事をしました。
その後5年の間入退院を繰り返し、先代健治は平成3年に亡くなりました。
私はこの5年をありがたく思っています。
先代から当代へ仕事を引き継ぐための大事な時間をもらったと思います。
保育園へお願いしていた子供3人もみんな小学生になり、
祖父の姿を記憶に残して送ることができてよかったと思っています。
平成3年3月より代表取締役は5代加賀龍夫になり、私も取締役に就任しました。
その年の9月に大型台風19号が日本に上陸し、全国で大きな被害を受けました。
その後に入荷した玄そばに粒の大きさがかわらないほどの石が混入していたのですが、
その当時の設備では分別が完全にできなくて、そば粉に石の粉が混入するという
取り返しのつかないことが起こってしまいました。
それまでも父を交えて新しい設備を入れないといけないという話をしていましたが、
この時はもう待ったなしの状況で、最新の設備を入れるためには
新しい工場を建てるということから始めないといけませんでした。
それほどに機械が大型化していたのです。


先代が生存中に、現工場がある土地を購入してあったことと、

他県の製粉工場を見学させてもらい、ある程度の計画は持っていたことで、
石臼をメインにして、最新鋭の保管、精選、脱皮他の設備を導入する計画を本格化しました。
この時、都会ではすでにバブルがはじけていて、
とてもこんな小さな町工場に融資などしてもらえなかったと思いますが、
福井にはまだその波がきていなくて、その狭間で融資を受けられて、
年末に工場建設に着手できました。
今思えばなんと運がよかったんでしょう。
あと少し遅かったらもう無理だったでしょうね。
平成4年5月16日、新社屋工場が完成し、
地元のお得意様や銀行関係者、工事関係者をお招きして、
完成披露祝賀会を催しました。
その時に、当時のピリケンの社長(現会長)様から、
石臼の台数が少ないとご指摘をいただきました。
生産効率の悪い石臼は敬遠される傾向にありましたが、
そのお言葉を忘れず、その後4度にわたり増設して、
現在では当時の3倍の台数になっています。
そして、それぞれの臼の特徴を活かして多様なそば粉が挽けるようになっています。
平成5年1月、移転後初めて新デザイン新住所でそば粉の袋を作ることになり、
これからは製粉所ではなく製粉会社として製品に責任を持つという気持ちを込めて、
(有)末吉製粉所から(有)末吉製粉と社名を変更しました。
このあたりから北陸ばかりでなく、関東関西圏よりそば粉の注文が入るようになりました。
粉の出荷業務が新しい仕事に入ってきた時期です。
二人で遅くまで工場で仕事していて、
子供の事は母任せになっていました。
今思うといろんなことにごめんなさいを言いたいですね。
全く余裕がなくて何にもできなかった。
なりふり構わずでした。
書いていると止まらなくなります。
続きはまた明日書きますね。
おやすみなさい。