敦賀気比高校が春の選抜野球で優勝してから、気持ちが高揚してナチュラルハイというか確変みたいになってる加賀健太郎です。先週から雨降りで晴れ間のない日が続いていますが、今週も気分よく頑張ります!
福井の桜の名所である足羽河原の桜並木は、優勝による県民の喜びエネルギーがあまりにも大きかったからか例年より早く満開になり、雨足が強くても夜遅くまでたくさんの人がお花見に来ていました。
今がまさに満開!
素晴らしい景色です。
写真だとスケールの大きさが分からないんですよね。
ぜひこの季節の福井市へお越しいただいて、実物の桜並木トンネルを歩いてほしいです。
今日は秘密のケンミンショー様から「越前おろしそば」のルーツについてお問い合わせをいただきました。
元々、おろしそばはどのように生まれて、福井県民に定着していったのか、また福井のそば出汁文化についてもお話させていただきました。
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越前おろしそばは、府中(現在の越前市)城主がそば麺に大根おろしを添えて食べたといわれている
カニやウニと並んで福井の特産として知られるようになった「越前そば」。
昭和22年に昭和天皇が北陸を視察したときに武生で【おろしそば】を食べられ、その後、「あの越前のそば・・・」と口にしたところから【越前そば】と命名されたという。
「慶長六年(1601年)、本多富正が伏見から府中(現在の武生市)城主に国替えした時、金子権左ヱ門というそば師を連れてきて、そばの栽培を奨励させ非常食として、現在のように麺(めん)状に茹で大根おろしを添えて食べたといわれています」
これは、組合が発行した[福井県麺業史]にも出てくるおろしそばのルーツですが、今のところ真偽のほどは分かっていない。
縄文後期には日本に入っていたそばは長い間、”そば米”やそば粉をお湯で溶いた”そばがき”として食べられてきました。 今のように麺にした【そば切り】は江戸初期に一般的に広まったといわれ、「庶民に人望の厚かった富正の手柄にしたのでは」という人もいる。これまで、そば切りに関する所見は慶長十九年(1614年)に書かれた[ 慈性日記 ]とされてきたが,、昨年、長野県の寺にある天正二年(1574年)の文書から「振舞ソハキリ」という文字が発見された。
そば切りの歴史が約40年さかのぼることが出来たことで、元亀三年(1572年)生まれの富正が府中に来る前にそば切りを食べていた可能性も出てきたことになる。
そば師 権左ヱ門が実在したかどうかはハッキリしませんが、富正は結城秀康に仕え関東の結城家にいたことがあります。ソバの産地、北関東出身の家来も多く抱えており、戦国の影響が色濃く残っていた当時、凶作にも強く、調理法も簡単な【おろしそば】を越前に定着させた可能性はむしろ高いのではないだろうか。
末吉の越前そば粉ホームページより抜粋
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[4月2日(木)]
天気:曇り
石臼工場内室温:26℃
石臼工場内湿度:68%
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